過去公演ごあいさつ
「神話」を書くとは、人間の本質といかに向き合うかという根源的な問題に取り組む行為に他ならない。たまたま物語として紡ぎ出された、世界と人間同士の関係性の在り方。それが「神話」と名付けられただけの話だ。すべては「神話」でありえるのである。なぜなら、とことんまで自己と向き合えばかならず、その先では世界と向き合うことに繋がってくるはずなのだから。
ただ「神話」というとどうしても表層的なイメージが強い。やれギリシャ神話だのケルト神話だの日本神話だのを思い起こせば、神々が愛しあったり争っている印象ばかりが頭に浮かぶ。いやそうではないのだ。人間が語りたいのはそんなことではないのだ。その物語の内奥に何を読むか。「神話」というものが長く語り継がれてきた意味は何なのか。それを突き詰めて考えれば、やはり人間は人間のことを語っているし、自分たちの生きる世界のことを語っているに違いないのである。
これからはじまる三作品の中から、お客さまが何を観るかはお客さまの想像の自由である。ただありのままに、そこに在る作品を観てほしい。その上で何を感じ、何を考えていただけるか。みなさんの心に何ものかが残れば、幸いと思う。
今回ミームの心臓で上演する新作は、『創世記』の中のある物語の構造を換骨奪胎して書きあげた。なんの物語かを言ってしまうと、「カインとアベルの物語」である。この有名な物語は、創世記中では文庫本でたった3ページの分量を占めるに過ぎない。それを現代という時代で日本人にも伝わるように考え、ほとんど白紙の状態から創作したのが『東の地で』という作品だ。紙として創世記を持ち出し、僕の言葉をペンのインクとして書きつけたと思ってもらえればいい。
語りたいことは数多あるが、作品を観ていただければそこに僕の言葉以上のものが現れてくるだろう。だからここには、脚本のエピグラフとして『創世記第四章七節』の一文を載せるに留める。
ーー 罪は君を渇望している しかし君が罪の支配者にならねばならないのだ ーー
詩人ハインリヒ・ハイネは「社会的な革命を推進しようとする作家」であった。彼は詩人として、いわばペン一本で革命を起こすべく「行動」したのであって、それ以上もそれ以下も望まなかった。書くことが彼にとっての革命であり、それより他に果たすべき道などなかったのである。
各人にはそれぞれ己のすべきことがあって、いかにしてそれを見つけ出すかということが問われる。そのような己の使命と直結するのは、その人が世界になにを求めるかに尽きる。求めるものがある人は概して孤独であり、なにものにも侵されることはない。ハイネもまた孤独を生き、紙の上に革命を実行した。畏敬する人物である。拠り所なき人々に、光与えられるようになれればいいのだが。
悲しくなって夜空を見上げる そこでは無数の星が会釈する
けれどぼく自身の星が どこにも見当たらない -- Heinrich Heine
2012年9月 酒井一途
脚本の初稿を書いて後々調べてみると、どうやらハイデガーの言う「死の自覚」が今回の作品内容と相当するらしいことがわかった。不学ゆえ哲学書などろくに読みもしないのだが、『存在と時間』は自身の思索を深めるためにも読んでおくことの必要性を感じる。
ともあれ「死」に対し問題意識を抱いて書いた『vital signs』であるが、果たして「日本の」との制限の括りの中で機能するかということが企画にとって重要なわけだ。
僕は機能すると答えたい。現代日本を見つめたことで生じた問題が「死」であったという紛れもない事実があり、また意図せず散りばめられた要素は震災の影響色濃いものであったのだから。いかに見るかは観客の皆さまの視点に任せたい。
2011年12月 酒井一途
『学生版日本の問題』へのご来場、誠にありがとうございます。『学生版』では、小劇場演劇界における有名無名を問わず確かな才能と実力を有し、今後次代を担っていく強い意志のある学生劇団を選び、参加団体としました。
私たちは「ゆとり教育」で育てられてきた世代ではありますが、与えられた生温い環境に満足せず自らの主体性でもって新たに世界を切り拓かんとする学生が確かに存在しています。その萌芽が今、「日本の問題」を上演するという意欲を皆さまに見届けていただきたいと切に願います。
どの日程でも、一日でA班とB班の両方を観劇できるように設定してあります。どうせですからぜひ六劇団すべて観ていただきたいです。「どの劇団もカラーが違うから」なんて当たり前なことではなく、「僕自身がどの劇団もお勧めだから」という純粋で単純な理由からです。観て損はさせません、そう断言できます。
そして学生の持つ若々しくも鋭い感性で描かれた「日本の問題」を見つめ直した時、観客のみなさまの側にもまた新たな視点がもたらされることではないか、と大きな期待を抱いています。作品を観終えた際には、ぜひ批評精神でもって作品について、扱われている日本の問題について、ネット上などで語り合うことができましたら、これほど嬉しいことはありません。
学生版プロデューサー 酒井一途
私たちの目は近視になった。先の見えない未来であるのに、そこには確実に現在の延長線が続いていくことを信じている。何か大きな変化が起こることなど想像しないし、また望んでもいない。それがゆえ、すっかり遠くを見る目を失ってしまった。
対して共産主義を信じることのできた時代の若者は、遠視だったのではないかと思われる。今現在の状況を把握する前に遠き未来へと目を向けた。社会変革を志すに当たり、時代遅れな左翼思想に一身を預けたのが、時代を読み切れていなかった証左である。彼らは足下の石に気付けずに、躓いて倒れた。
不思議なものだ。方向性こそ違えど、若者はいつだって社会に不満を抱いている。閉塞を感じる生き方に反発しようとしている。なのにその表現方法があまりにも稚拙だ。どうしてこうも極端なのか。僕は両者共に対して懐疑心を抱かずにはいられない。現実を諦観するではなく、しかと見据えつつ、それでもなお理想を追い求めることはできないのだろうか。
私たち、つまり現代の若者は、道端の電柱に頭をゴツンとぶつける前に、目の矯正をした方が良い。近視には然るべき凸レンズの入った眼鏡が必要となる。その眼鏡とは、理想を胸に抱けども、目の前を見ようとしなかった四十年前の全共闘世代を知ることにあると考えた。 そうして僕は、夢見ない現代の若者と、全共闘の若者の邂逅から始まる劇を作った。なにかしら受け取ってもらえるものがあれば、これほど嬉しいことはない。
2011年8月 酒井一途
現代日本に変革を来たすものは、もはや政治でも経済でもありません。大企業は不景気の大波に乗り上げ、品質を落としてでも安値で商品提供をする傾向にあります。消費者も同じくして、如何にして安く多くを求めるかという空気が世間に蔓延し、誰もがその流れに逆らえずにいます。人件費の少ない海外に工場が移設されることで、日本人の美徳であるところの伝統的文化や繊細な技術は凋落に至り、かつて高度経済成長期の日本が戴いた栄冠の誉れは、今や見る影もありません。疲れ果てた現代日本は、迫るアジア諸国の追い上げから逃れることも出来ず、ただ茫然と俯いています。
それでは日本は終焉を迎えるのかと言えば、そういうわけでもないのです。ここは是非、変革の時代が来たと前向きに思っていただきたい。僕は今こそバブル崩壊後の日本に根強く残るイデオロギーの払拭をすべき時と考えます。そして、そのためには徹底した意識改革を行わねばなりません。
日本に意識改革を、と言うには理由があります。日本はどうも未だに欧米コンプレックスが拭えずにおり、何でもかんでも欧米の真似をしようとします。英国でも活躍する演劇人野田秀樹曰く「明治維新以後、政治と経済での不平等は乗り越えたものの、文化的自立はされていない」とのこと。米国にはブロードウェイ、英国にはウエストエンド、そして日本にはトウキョウ。三大都市とも世界を代表する劇場数、公演数を誇るというのに、日本だけには文化が国民に根付いていないのです。政治と経済は真似をする。その割には、どうして文化だけは真似をしようとしないのでしょうか。
それは、文化を国民に根付かせることが政治や経済を成り立たせる上で邪魔だからです。文化を知った国民には自我が生まれ反骨心が芽生え、体制にとって扱いにくい存在となってしまう。だから日本は文化を後ろ目で見るのです。「出る杭は打たれる」の諺からもわかるように、日本は古来より個性よりも集団性を重視します。それもすべて、体制が国民を上手く扱い、優秀な歯車として機能させるため。これを脱却するためには、やはり文化のチカラが不可欠だろうと考えます。
そう。必要なものは文化。演劇という文化は意識改革を行う上で重要なツールとなります。シェイクスピア然り歌舞伎然り、古くより演劇は社会へのアンチテーゼとしての意義を少なからず持っているものでした。現代ではメディア等の情報伝達媒体によって、その占める割合は矮小化する一方ではあります。しかしそんな現代においても演劇に拘るのは、想像力の喚起による観客への影響が他を圧倒して甚だしく強大だと信じているからです。他のどんな媒体よりも想像力を鮮明に刺激するために、観客が思考を膨らませやすい。膨らんだ思考から生まれるのは自我。アイデンティティです。
「意識改革」ではわかりにくいし、左翼的に聞こえるかもしれません。なので他の言い方をすれば、日本人が「アイデンティティを確立する」ことこそが大切。演劇を観た後には自ら頭で思考することによって、今までと異なる視点を持つことが出来ます。考えを再構築し、新たな思考を生み出す或いは許容させることが出来ます。現代日本はみんな心が狭すぎる。その島国根性が故に、日本は再び奮うことが出来ないでいるのです。なんでわざわざ他者を阻害するのか。同じ人間でも自分と他人は違うと割り切り、もっと認め合ってもいいのではないか。そう感じざるを得ないのです。
もちろんこういったことは僕が恵まれた環境で育ったからこそ言えることでしょう。でもだからこそ、そういう環境で育った人間にしか出来ないこともあるはずです。それをやることに価値がある。存在意義が見出せる。いま世界はあまりにも窮屈で、息をするにも気を遣わねばなりません。そんな世界は生きづらい。変革のために少しでも力になるのなら行動したいし、信念を持って行動することに必ず意味はあります。例えひとりの力では難しくとも、更にそこに追随する才能が現れることで変革の可能性は増していくのですから。
最後にはなりますが、本日はミームの心臓旗揚げ公演『ヴィジョン』に足をお運び下さり、まことにありがとうございました。ごゆっくりお楽しみくだされば、僕としても嬉しい限りです。
2010年9月 酒井一途
本屋にフリーで置かれていた雑誌『本の窓』を読む。特集は『大学と大学生の温度差』
掲載されている記事の中でも、リクルート人事部の方の話が格別に面白い。ここ数年の学生は「就職を自分のこととして捉える力が、少し弱くなっているのではないか」「人生に対する考え方、仕事に対する考え方、人とのつきあい方(中略)まさにこの部分が、希薄になってきている」「好奇心が足りないといいますか、当事者意識があまり感じられないのです」
語弊がありそうな書き方になるが、同世代として、現代の学生の身近にいる私も同じことを思う。現代には身の周りに二次元世界が氾濫しすぎているせいで、リアルとバーチャルが渾然としている。それが故に、誰しもが「心此処に在らず」といった体だ。自らに降りかかるあらゆる物事を、(それが例え人生における重大な問題だとしても)、真摯に真正面から考えることをしない。必ずや迫り来る現実を受け止める気概がない。しかも当の本人に悪気がないからこそ、さらに厄介である。
それでは四十年前の学生運動時代の若者なら良かったのかと言うと、そういうわけでもない。当時は個人を完全に排し、社会全体を一義に考えようとする共産主義的イデオロギーが必ず意識の根底にあった。彼らは思想主義に縛られた人間であり、集団への帰属を求めるあまり個人を見失ってしまっている。その意味では、過去も現代も同じくして若者は「自分自身」について思考することをしていないことがわかる。いつの時代でも常に若者は「時代の空気」という”檻”もしくは”籠”に囚われている存在である。
大切なのは、若いうちにもっと自分自身を考え、自らの望むところを知ること。それは豊かな人生を歩む上で必要不可欠なものだ。しかしながら、他人から強制されてやることでもない。そういうわけで、モラトリアム期は若者が何ものかに気付くために存在している時期である。 時代の空気から解き放たれ、自分のチカラで帆を張り、吹き抜ける風を操って生きていくために。
ところが現代の若者はその肝心のモラトリアム期を、社会に出ても抜けられないと聞く。だとすると何のための大学生活なのか。何のための子供と大人の狭間に存在する「青年期」なのか。大学の存在意義、大学が学生に及ぼす影響を考えると、それは学生運動の頃と何ら変わっていないような気がしてならない。我々の生きるこの経済大国が進歩を遂げているようには、到底思えない。 こんな日本の現状を見ていると、いてもたってもいられない。何か行動を起こしたくなる。
私はほんの僅かでもいいから、日本を進歩させたいと本気で考えている。それが演劇による社会への問題提起によって為せるのならば演劇をするし、企業の歯車となり創造価値のあるものを作ることによって為せるのならば就職をする。ツールは何でもいい。より確実な方を、大学で選ぶ。そのための大学生活と割り切るつもりだ。 傲慢だと言うなら言えばいい。そんなことはとっくに自覚している。そもそも私は生来、ドンキホーテ型思考回路をしているのだ。失敗すればただの滑稽な笑い話。身の程知らぬ小人が、デカいことを豪語していたと。しかしそれでも前を向いて行動するのが「あるべき姿」なんじゃないか。それでも何かを賭けて、いつまでも戦い続けるのが人間なんじゃないか。
比べるのもおこがましいが、かの維新の先駆け坂本竜馬は「死ぬときは、たとえドブの中であっても前のめりで死にたい」と言ったという。別に坂本竜馬が好きなわけではないが、私もそうありたいと、自身に誓う。最後にミュージカル『ラ・マンチャの男』から好きな一節を引用して終える。 ”理想”と”現実”について、初めて真剣に考えるキッカケとなった一節である。
「人生自体が狂気じみているとしたら、
一体本当の狂気とは何だ本当の狂気とは。
夢に溺れて現実を見ないのも狂気かもしれぬ。
現実のみを追って夢を持たぬのも狂気だ。
だが一番憎むべき狂気とは、
あるがままの人生に折り合いをつけて、
あるべき姿のために戦わないことだ。」
2010年3月 酒井一途
つい先日、電車内で深眠りしてしまい、舟を漕いでいるうちに、右隣の人の肩に頭をぶつけてしまった。恐縮しながら「すいません」と言うと、白髪混じりのその男性は、優しく「いいよ、寝てろ。着いたら起こしてやるよ」とおっしゃった。温かくこちらへ向けられた目に、僕の心はぬくもりに満ちた。
他愛もないエピソードかもしれないが、僕は深く感動した。電車内には周りの存在を完全に無視して、自分の世界に入り込んでいる人が多い。冷たく、無表情な仮面で表情を隠した人ばかりがいる、そんな暗闇の閉鎖空間に、ただ一点の光が灯るように温かさが存在していた。想像してみてほしい。それは頭に描けば描くほど素敵な光景だ。
人の心は感染する。感染する心に愛憎は関係ない。愛は新たな愛を生み、憎しみは新たな憎しみを生むこととなる。だが負の連鎖はいつか断ち切らねばならない。誰か一人でも憎悪と真っ向から対峙してそれに打ち勝つことが出来たなら、そして憎しみの代わりに愛を与えることが出来たなら、きっと世界は変えられる。少しでもより良い世界が作れる。その誰か一人が現れるために、憎しみと戦うその人のために、周りの人の温かさが不可欠だ。どんな些細なことでもいい。たとえ微かな光でも、闇に救いの扉は開く。
どうかあなたには温かくあってほしい。一つの温かさは感染し、また新たな温かさを生みだす。そしていつかあなたが施した温かさは、太陽ほどの大きさに育ち、多くの人の暗闇を明るく照らしつけるだろう。それは確かに世界を癒すことになる。
本日はご来場ありがとうございます。ほんのわずかでも僕たちの温かさを感じてもらえれば、その温かさをまた誰か他の人に分け与えてもらえれば、これほど嬉しいことはありません。ごゆっくり、お楽しみください。
2009年8月 酒井一途
インタビュー
鐘下辰男氏×学生版日本の問題
坂手洋二氏×学生版日本の問題
劇評
「表現に意味はない」という問いかけに答える。
表現に意味はある、力はある。僕は声を大にしてそう言おう。しかしこの問いには「誰に対して」という前置きが必須で、その前置きなしに議論していても本質でないところで上滑りするだけである。つまり「被災者に対して意味がない」のか、「非被災者に対して意味がない」のか、を考えなければならない。
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プレゼンをしていた廣瀬さんは、震災後に幾度も被災地にボランティアとして足を運び、その現状を自分の目で目の当たりにしていたからこそ、「東京のこの地で行う演劇表現は、被災者に対する直接的救済足り得ない」ということを考えたのではないかと思われる。
そういう意味では僕も同感である。いくら収益金寄附しようが、演劇の売り上げなどたかが知れている。寄附に意味を見出すのなら、劇場借りる金や制作費を送ったり、稽古や公演に費やされる膨大な時間をアルバイトなりボランティアなりした方がよほど役立つ。もちろん、金額の大小を問題としているのではない。そもそも収益金寄附に大した意味はないということだ。表現をやるからには、表現が為しうることとして、「収益金寄附」という名目を引っ提げる以上に、できることもやるべきこともあるだろう。
もし被災者に対しての救済をするなら、現地に行けと思う(被災地で演劇やるのは邪魔だという議論は一旦置いて)。表現というものは自身の目で見、自身の耳で聞かなければ、何も生まれてこない。
もう一つ違う目線を提示すると、荒川チョモランマ主宰の長田さんは「観客の意識を動かすことで、観客が被災地にボランティア活動に行く機会となり、そうなれば被災者に対しても意味があることになる」と言う。作家としては素晴らしいスタンスだ。しかしこれは、企画の側の問題が絡んでくる。
今回の企画、圧倒的に集客層を間違えている。この企画の名称は「日本の問題」であり、「東日本大震災」を演劇で語るとなれば、一般人にこそ観てもらうべきなのだ。小劇場界の内々でやっていても、何も社会に影響を及ぼさない。渋谷の街ゆく人々が、誰がこの企画の存在を知っていよう。マーケットを一般に広げなかった時点で、企画としては壊滅的である。
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では非被災者にとってはどうか。僕は東京で企画をやるからには、この前提で統一されると思っていたし、そこからだったら幾らでも「表現の意味」を広げていく方法はあるはずだった。が、企画としてあまりにも各人の思惑がバラバラで、それがいい方向に働けばよかったものの、そうはならなかったように感じる。
長田さんは非被災者に向けての作品を作ったと断言していた。僕も観ていて、それを強く思ったし、意義のある作品を提示してきたな、という感想を持った。より多くの人に見られることで、問題意識が広がっていくタイプの作品だ。だからこそ惜しい。長田さんの作品には、もっと相応しく効果的な場があるべきだった。
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「虚構の中に真実を」というフレーズが好きだ。芸術の存在する意義は、まさにこの言葉に集約されると僕は考える。表現はリアルたりえない。廣瀬さんの言うように、インターネットで世界中に配信されている津波の映像を見た方が衝撃的だし、何よりそれはリアルそのものに違いない。
しかし表現に求められているのは、リアルをリアルとして見せることではない。表現という虚構はリアルを映す鏡となって、鏡はときに現実以上の真実を映し出すことがある。その真実の光は、芸術表現以外では表しようがないものなのだ。その光を信じているからこそ、僕は芸術を志す。
信じる、というのは盲目的になることではない。冷徹に表現の存在する意味を問いただし続ける必要がある。そして表現に意味があると信じるからには、表現は万能ではないことも、知っておかなければならないだろう。その目線は、とても重要なことのように思う。
たとえば思出横丁の岩渕さんの作品は「非被災者が被災者に対して必死に手を伸ばそうとしたけれど、届かなくて、自分のあるいは人間の無力を実感した」内容だった。自分に表現できないものがあることを知り、その現実をすべてありのまま自分で背負うという選択をしたわけである。無力を知るのも、大きな一歩。彼の覚悟の底から、見えてくるものはあった。
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今回僕が一つ一つの作品に対する感想をあまり言ってないのは、作品を見ながら文章が思い浮かばなかったためだ。僕は文章の1フレーズがポッと頭に浮かんできて、そこから文章を膨らませていく書き方をするので、その書き出しとなる1フレーズが浮かばないと、書く気が起きない。
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「若者が真摯に取り組んだ」なんてのは評価対象にならない。企画に参加した作家・演出家や役者たちも、そんなこと言ってもらいたくないはず。僕自身、十八歳で劇団旗揚げしてからというもの、「若いから〜」「若いけど〜」といった冠がついた上で感想を言われることがあって、苦虫を噛んでいるからわかる。さっさとそこから抜け出す実力を付けたい、そのためには本質を突いた批判を受け止めて、絶望して這い上がって、という艱難を何度でも乗り越えなきゃならない。批判が必要だ。思考のために。
観に来た友人が「この企画はもっと叩かれるべき」と言っていた。確かにその通りだと思う。作家・演出家が、役者が、自分の作品に全力を注ぐのは素晴らしいことだ。しかし企画と作品を切り離して見ることは、一観客としてはどうしてもできない。一般的な観客は企画全体の中の一作品として、その作品を見ることになる。僕もやはり企画を通して作品を見た。
だからこの企画に関わったからには、企画そのものをどうにかする必要があったのではないか。あれこれ物議を醸したのも、あまり望まれる方向性で騒がれたとは思えない。問題山積みのまま、それが何一つ解決されることなく終わってしまったように感じる。
終わったものはもう仕方がない。俯いて反省してから、前を見よう。参加した各劇団も、参加しなかった僕も、これからどうするか、だ。
そして震災問題においては、何一つ解決されることなしに終わることは絶対にない。問題は何もかも引き続いている。我々が何も考えず何も行動しなければ、子孫に引き継がれていく。負の遺産を残してはならない。少しでも解決の手を。
「震災から一年」の節目で改めて意識されている3月11日。一年後だから考える、のではなく、一年後の今も考えている、という風にありたい。
「『ハムレット』における、こまどり姉妹登場の意義と観客の反応への個人的な危惧」
この感想では、芝居の中でのこまどり姉妹の登場シーンと、その時の観客の反応について言及したい。
あの「ハムレット」に演歌歌手のこまどり姉妹が出演すると言うことで、誰しもどのように現れるのかを期待の一つにしていたのではないかと思う。では実際どこで出てきたのかというと、三幕一場、ハムレットとオフィーリアが対面している場面(「尼寺へ行け」の場面と言った方がわかりやすいか)そのシーンで突然BGMが流れ始めて後ろ幕が開き、こまどり姉妹が登場する。
歌われるのは「幸せになりたい」という、こまどり姉妹の持ち歌。スパンコールに包まれたきらびやかな衣裳で、スポットライトを浴びて堂々と現れる。本来希望的に歌われるはずであろう歌なのに、シーンの情景とも重なってこれがなんとも悲劇的に聞こえてくるのだから、蜷川さんの采配はすばらしい。
「この世に生きる喜びなんか 誰も教えてくれはせぬ
意地を張っても心にゃ負ける 自分に嘘はつけないさ」
この三幕一場、オフィーリアが出演してくる前にハムレットの第四独白があるのだが、ここで「生きるべきか、死ぬべきか」との有名な台詞がある。死後の世界への恐怖ゆえに、不満ばかりが募る苦しい人生にケリをつけられず、決意に至れないハムレット苦悩の独白だ。「幸せになりたい」の歌詞がここほど響いてくる場所もない。
しかし僕としてはまことに驚くべきことに、こまどり姉妹の登場に観客たちは笑ったのだ。彼女たちが歌い始めても、笑い続けているのだ。何故笑える? 何故笑えるんだ? 老人ならいい。けれどどうやら若者も笑っている。何故だ? いま歌われているのは若者の心底からの悲痛な叫びの歌ではないのか? そう聞こえては来ないのか?
僕自身は嗚咽の中に顔面を涙と洟で塗れさせながら、ハンカチを手に取ることも忘れ喘いでいた。そして同時に観客に対する憤りと疑惑の感情が微かに湧いていた。
何故と言って、理由は明白だ。笑った観客たちは皮肉と受け取ったわけだ。 演劇内で起こる虚構の現実に打ち震える役者たちの世界をぶち壊して、「こまどり姉妹」として出演してくる二人の演歌歌手を、虚構に対する皮肉として見た。だから笑った。そのこと自体は理解できる。たしかに芝居が始まる冒頭から楽屋裏を公開していたり、役者が観客に話しかけたりと、「我々は演劇をしています」と言わんばかりの演出が施されていたことは事実である。
しかしだな、それでもあの場のハムレットやオフィーリアの台詞を我が身と聞いていたら、笑えるわけがないのだ。皮肉として見えてくるわけがないのだ。なぜならあの歌は「ハムレット」の脚本上のどの台詞よりも切実に、これから死んでいく若者たち(ハムレット、オフィーリア、レアティーズ)の本音を表していたのだから。生きとし生けるすべての若者たちの本音を代弁していたのだから。
「しあわせに しあわせに なりたいの」 と。
観ている最中こそ夢中で泣き濡れていたのだけれど、冷静になって考えてみれば、あの演出は「笑え、笑えるものなら笑ってみろ」 と言っていたように思えてならない。蜷川幸雄が観客に対して突き付けた挑戦状だったのではないか、と。もちろんこれは僕の勝手な個人的な解釈である。
さて、ではどうして笑っていた観客には、こまどり姉妹の登場が皮肉と見えたのだろう。その理由も簡単に考えられる。つまり近頃の観客はドラマ(物語)をあくまでドラマ(物語)として捉えてしまうため、自分自身の内的体験と置き換えたり想像を膨らませたりすることがないとは、よく言われることなのだ。
簡単に言えば、感情移入しないわけである。死んでいく登場人物を見て「可哀想」と泣きはする。しかし「もし自分が同じように死にゆく身だとしたら?」、あるいは「もし身近な者(恋人や両親、子供)が、この登場人物のように死にゆく身だとしたら?」とは考えない。劇場や映画館を出たらスッキリ解消して「いい作品だったね、さあ夜ご飯は何を食べようか?」と言えてしまう。
いや何も飯を食うなと言ってるわけじゃない。これはもっと本質的な問題だ。「演劇世界」という虚構から「現実世界」の真実が映し出されてこないことを明らかに示しているのだから。こうなると芸術作品が存在している意義すらも危ぶまれる。芸術とは、虚構の中に真実を生み出すからこそ、価値の真意が生まれてくる、と僕は思っている。虚構を虚構として楽しむのであれば、娯楽でいい。遊園地にでも行けという話だ。もっとも遊園地には夢が溢れているかもしれないが、真実はどこを探しても見つからないだろう。
芸術の火を絶やしてはならない。芸術を受け取るときには、こちらからの歩み寄りも大切なのだ。受動的であってはいけない。与えられると思ってはいけない。切実に自分の身として芸術作品を感じる。そうした時に、初めてすばらしい真実が見えてくるはずである。真実が見えてくるのである。
開演前のロビーは騒々しい。劇場内が解放されず、観客がロビーに待機させられているからだ。相まって係員に扮する役者が各所であれこれと注意を促しているし、テーマパークにでもいそうな「モグラ君」と称された着ぐるみの首から提げられたラジオカセットからは、いかにも「科学なんちゃら館」だとか「あれこれ学習センター」だとかで流れていそうな、ふざけた学習テープが声を響かせている。
時間になると、係員が班ごとに分けられた観客を場内へ導き入れる。そうして私たちの「超深地層研究所」の疑似体験から芝居が始まる。観客は身体ごとフィクション世界に放り出されるわけである。地下1000メートルへ下るエレベーターに乗り(照明と音響で表現されているのだが、実際に地下に降りて行っている感覚がしてくるのだから劇空間というものは不思議だ)、再び学習テープを聞かされながら、劇の展開する場所へと到着する。テープの内容はすべて事実に基づいた内容だ。フィクション世界の体験をしているはずなのに、ノンフィクションの語りが私たちを導いていく。後に混濁していくそれらの世界の違和感を、観客はまず始めにここで感じることだろう。
繰り広げられていく劇世界は幻想と現実とを交錯して進み、私たちを混沌とした思考の中に突き落とす。膨大なる情報量の知識はすべて事実上のデータから取り上げられており、その知識はこれでもかと言うほどに観客の頭に詰め込まれていく。それはこれまで新聞の片隅に載りながらも、私たちが見てみぬ振りをしてきた情報である。作品は観客にその情報を突き付ける。それでようやく私たちが目を向けてみれば、そこでは目を見張るような信じられないことが、現実に平気で行われていることを知るのだ。今現在もそれらは進行している最中で、終わることなどなく延々と後代へと受け継がれていく悪循環である。
食い止める?どうやって?すでに先代から引導は手渡されている。そのバトンは取り落とすことも放置することも出来ない、前に進めていく以外に方はない。次の走者に、つまり私たちの子供や孫、さらには10万年後の世代にまで続いていくバトンだ。もはや手遅れ、解決のための道筋は見えない。作品で解決が提示されることはない。おいおい、それじゃアイロニカルに過ぎないか。俺たちはどうすりゃいいっていうんだ?
さらに劇の構造には最後まで明かされない真相がある。が、これまたなんたる皮肉だろう。気付いたときには芝居はすでに終わっているのだ。閉じ込められた空間から帰還できると知った登場人物達は、それまでの騒ぎなどはどこへやら、意気揚々と舞台上を去っていく。そして私たち観客は「さあ芝居は終わった」と劇場を後にし、それぞれ家に帰っていくことになる。登場人物も観客も同じ。どこにも留まる者はいない。大体どこに留まれと言うのか。留まって何をすると言うのか。しかし一つだけ言いたい。知っておいてもらいたい。芝居は、物語は終わったが、現実は終わらないんだ。続いていく。先に上げた悪循環は物語ではない、まさに現実に行われていることだ。解決が提示されないんじゃ困る。
それでは「私」が今、何をどう行動すれば、世界は救いの兆しを垣間見せるのだろう、それも全くわからない。いや待て、万策尽きてはいない。「わからない」で手を投げるな。たった一人の戦争にも意味はあるはずだ。何より大切なのは、意志を持つことだ。来るべき時に自らの思考で闘えるように。
しかしここまで書いておいて言うのも難であるが、この作品を観ただけで「そうだ、放射能は怖い。原子力は絶対に悪だ」と考えるのもあまりにも安易だ。意志力の強い作品を観るときは気をつけなくてはならない。それが正しいものであるのか、そうでないのかを判断できるのは「私」だけである。レニ・リーフェンシュタールの『意志の勝利』にしてもそうだが、卓越した才能がプロパガンダを発信し始めると強烈な影響が与えられてしまう。すぐに他人の思考に流されるようでは、危機が訪れたときに思考停止してしまう。長い物に巻かれてはならない。
あくまでこれをきっかけとして、私たちの身に何が起こっているのかに対して適切な危機感を覚え、無知を自覚して改めて自らの頭で現在起こっている事象を見つめ直し、その上で明確な立場を表明すべきである。
核実験禁止条約の議会に向けて、J・F・ケネディは言った。
「骨ガンにかかり、白血病に冒され、あるいは肺が毒で浸潤している子供や孫の数値だけを問題にし、統計上のことだと一蹴してしまってはならない。われわれがこの世を去って随分経った後、たった一人の人が生命を失うとしても、あるいはたったひとりの奇形児が出生するとしても、そのことはわれわれみんなが今日憂慮しなくてはならないことである……。われわれは、みなこの小さい惑星に住んでいる。われわれはみな同じ空気を吸っている、そして、われわれはみな不滅ではない」(R.P.ゲイル&T.ハウザー著『チェルノブイリ ー アメリカ人医師の体験』P.40-41より引用)僕の立場は、この言葉を引用したことから窺い知れるだろう。
『往転 -オウテン- 』である。良いタイトルだ。「横転」ではなく「往転」と。初めてチラシを見掛けた時から随分気になっていた。何やら意味深な文章がデカデカとチラシの表面を埋めている。
「まっすぐ歩いてるつもりだったでしょ、あなた。けど曲がってますよ無意識のうちに。もうどうしようもないですかねえ。こればっかりはねえ。ほんと、もうどうしようもないですかねえ??」僕は自分が作家性の強い人間だと思っているので、面白い台詞に出会うとつい頭の中で反芻しては吟味してしまう。その台詞に深い意味など与えずともよい。つまり、これは感覚の問題だ。琴線に触れるかどうかということなのだ。
僕の勘は結構当たる。こと演劇や映画が自分の感性に響くか否かは、観る前に直感が生まれてきたりする。今回も勘にビビビと来ていたので、評判を見てからチケットを取ろうと考えていたが、ひょんなことでプレビュー公演のチケットを手にしたため期待に胸膨らませ、観に行ってきた。
ということで、この芝居、まだプレビュー公演が始まったばかりで、11月20日まで三軒茶屋のシアタートラムでやっている。 以降はネタバレ等に気を遣わずに書くので、これから観るつもりの人は注意してほしい。ぱらぱらと読んで興味を持ってくれたら、ぜひ観に行ってみるといいと思う。
芝居は、演出の青木豪さんのアナウンスで始まる。普通は制作がやる「携帯電話の電源をお切りください」とか言うアレである。彼はここで、執拗な「お切りください」を繰り返して観客の笑いを誘う。これは「この芝居、笑っていいんですよ」という合図になる。上手いやり方だ。
観客というものは、なかなかに周りの空気を読む集団であるから「面白いんだけれど、笑っていいのかわからない」という状況に陥ることが頻繁にある。最初に自然に笑わせておくことで、強ばった表情は和らぎ、劇場空間に慣れ親しむことが出来る。シリアスなシーンから始まる劇でも、笑いのシーンではしっかり笑いが取れるようになる。功を奏してか、その後も客席の笑いはそこそこ取れていた。多分今後もっと爆笑が出てくる回があるのではないか。
物語は一つのバス転倒事故を行き着く先として、そのバスの乗客達の異なる三つのエピソードを進んでいく。最初は「事故の二週間後」だとか「事故の三日前」だとか、時系列をバラバラにした作りに困惑するかも知れない。けれど次第にピースが埋められていき、そんなことは全く気にならなくなる。人間の頭の構造というものは不思議で、物語の欠片は収束に向かって、頭の中でうまく当て嵌まっていくものなのだ。
エピソードにはそれぞれに色がある。一つのエピソードを深く掘ったら飽きてしまうだろう。ただ三つを同時進行で構成させることによって、舞台上のあちこちに違う色彩が見えてくる。最終的に人物がバスに乗り込むことだけはわかっているので、彼らがどのような道筋を辿っていくのかに好奇心が湧く。事故後のエピソードに関しても、あれこれと謎が散りばめられていて面白い。
当たり前ながら、少なくとも事故後に生きている人は事故で死ななかった人なわけである。ということは誰が事故で死ぬことになったのか。幕開けの冒頭にナレーションで語られる「二人死亡、三人重軽傷、二人行方不明」との言葉は観客の胸に引っかかったまま、物語が進む。
シーンのあちこちで黒子がカメラを回し、その映像がスクリーン上に映されていた。あれは演出の仕事だろうか、脚本にト書きがあったのだろうか。僕は多分演出で付け加えられたものだと思っている。ご挨拶で青木豪さんが「運命論のようなものは信じている」と書いていた。
神様のような何かがシナリオを書いていて、僕らはその通りにしか動くことは出来ない。あがいたところで死ぬ人は死ぬし、生き残る人は生き残る。とにかく人はなるようにしかならない。
僕自身、運命論のようなものは信じているが、青木さんの考えにはどうもペシミスティックな感じがしていて、少し違う気もする。僕が信じるのは「成るべく人は、成るべくして成る。ただし伴う努力があれば」という考え方である。神様が運を左右している面は実際あると感じている。しかしその左右を神様に判断させるのは、僕たち自身の行動の過程によるものと考える。「運は勝ち得るもの」という言葉はある意味正論だ。話がずれた。
とにかく、登場人物達の姿を映像に映し、時系列の異なる舞台上を縦横無尽していた黒子の彼らは「神様のような何か」を表した存在として、人間が抗うことのできない運命を描いていた。そこは、例えペシミスティックであれ、演出家の信念が宿っている部分であるから、正当に評価されるべきだと思う。
役者はみな非常に濃厚な演技をしていた。誰もが役として舞台上に生きているから、途切れ途切れのエピソードの合間を埋めるだけの想像力を喚起させられる。
新感線の高田聖子さんの普通の芝居は初めて観たのだが、一番自然に舞台上にいることのできている方だなという印象。怒りの演技一つにしても、不自然な所がまったく見当たらない。感情の流れ方を違和感なく見せるのはなかなか難しいことである。
大石継太さんも良い味。男の情けなさとか甘えを、観客に決して不快を感じさせることなく、うまく見せている。市川実和子さんと穂のかさんは愛らしい。それぞれ個性ある魅力を発揮していた。安藤聖さんは出番自体は少なかったものの、華がある人だなと感じた。
バスの横転場所が福島だったのが興味深い。あえて選んだのだろうから、そこに意味を見出そうとしてもいいはずだ。世界の暗喩だとまでは言わないが、そこまで言ったとしてあながち的外れではない。つまりバスが世界。事故によって崩壊した先で、亡くなる人もいれば、生き残る人もいるという状況。
もっとも転倒の原因は運転手の居眠り運転というのだから、その点は自然災害とは異なっている。僕の読みは作家の意図にどれほど沿っているものかわからないけれど(もしかしたら僕が全く違う解釈をしているのかも知れない)、どうせならバスの転倒原因を台風や土砂崩れに因るものだとしたら、暗示としてはより効果的だったと思う。福島まで持ち出したのなら、そこまでやっても良かった。居眠り運転にはそこまで意味はなく、ナルコレプシーとの繋がりを思わせるだけの仕掛けであったから尚更。
さて、そうして芝居は終幕に向かい、運命の足音が近付いてくることを感じながら僕は胸を高める。やがて世界は続いていくと知る。……わけだが、そこら辺はぜひ劇場でお楽しみいただきたい。
最後に一つだけ。どうやら震災があってからというもの、「その後の世界」の存続を思わせる作品が多いように感じる。いや、或いは我々の受け取り方が変わってしまったのかもしれない。
生きている人もいる。亡くなった人もいる。 それでも世界は変わることがない。人生を横転することによって、僕らを取り巻く生活が変化に導かれていくことがあろうと、世界そのものは決して変わることなく続いていくのである。たった今この瞬間にも。
表現者の辿っている解答は、今そういう地点に来ているのかと推測に至った。
コラム
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思索的演劇、というものを成立させてみたい。思えば、僕のやりたい劇作は最初からそこにあったのだ。具体として現前するしかあり得ない役者の肉体と、観客の好奇心を引き込む物語から紡いだ世界観の中に、観念的なる形而上学的思考を編みあげていく、といったような。哲学と言っては高尚すぎるし、思索という言葉であれば自己を掘り下げていくという点でもしっくりと来る。
あらゆる物語の要素と展開は、すでに長い人間の歴史の中で書き尽くされてしまったものであるし、今さらどのように物語として物語を語るかなどと言うことは主題にはならない。しかし一方で、哲学的なる問題に永遠に解が出ることのないことを僕たちは知っている。真理はひとつではないからだ。語るべきこと、思考すべきことは尽きてはいない。そこで劇的なる物語に密接に、哲学的思索を組み合わせることによって、より深い理解と認識とを生み出せるのではないかと考えた。
筋の運び方が巧い、ストーリーテラーになるつもりはないのだ。グレアム・グリーンの小説など読むと、本当に巧い書き方をする作家だと思う。それでいてそこには具体的なエピソードから立ちあがる哲学が見えてきて、とても面白い。彼のように書けたら、と思わないこともなかった。しかし僕は小説や戯曲を書く以上に、人間を描きたい。その人間が持つ一個の思想を表したい。
僕の知っている作家の一例を挙げれば、ヘルマン・ヘッセやミラン・クンデラは哲学的思索と小説的物語とを共存させ、そのことで自身の問題提起に解を与えようとしていることがわかる。僕は彼らのような作品を書くのが理想だ。志向するのは誰にも自由な権利だ。もっともそれを現実にできるかどうかは、才能と努力如何であるが。
その傾向が特に色濃く出始めたのが、番外公演として上演した『vital signs』を書いた頃、19歳も終わりに差し掛かった冬のことだったろう。台詞から一部引用してみる。
庸平 生と死の平行線を頭に思い描いてほしい。彼方を見はるかせば両者が混じり合う地点が見えるだろう。俺たちはいつかそこに辿り着く。生もなく死もない世界に。
円佳 ねえ恒暉。わたしたちは死んでからも生き続けているんだよ。だから死ぬことを対立と思わないでほしいの。いつだって私は恒暉のこと見守っているんだって、忘れないでいてくれたらうれしいな。
当時は非ユークリッド幾何学に関心を抱いていて(学問的にではなく概念としてであるが)、そこに生と死を当てはめてみたいと考えた。ちょうど「私と他者が交わる」ことを描いているドストエフスキーの小説のように。(cf.柄谷行人『言葉と悲劇』) そう、生と死とは交わることのない平行線でありながら、互いに引き寄せ合い、いつか無限遠点で交わるのだ。
『vital signs』は二十五分に制限された上演時間内に収めるには膨大すぎる物語背景を想像してしまい、それらは描ききれなかった。具体的な物語を示せず、それゆえ書き込みたかった観念も伝わりづらかったように思う。決して考えが浅いわけではないし(それこそ一文字一文字を血が滲むように書きつけたのだ)、一部のもともと考えが近しい人には伝わったようだったけれど、それにしてもより多くの人に伝わらなければ意義が薄れる。
前作『幻想の方舟』では、故吉本隆明の共同幻想の概念を引っ張り出してきて、崩壊していく共同幻想に浸り続けようとする共同体から、対幻想の相手を見つけ出して脱出を図る二人を描いた。結局残された共同体の人間たちは、また新たな共同幻想を見つけ出してそちらに乗り替えるという皮肉な?末を迎える。
「現代」という時代を描こうとして見えてきた縮図はそのような構造だった。共同体の人間たちは各々自己幻想に熱中しているようでいて、実のところ共同幻想に埋没しているのだ。同じものを信じ、同じものを疑い、そこには自分固有の意志がないかのように思える。
作品としては、批評的に解体した要素を再構成することで組み立てる、といった変わった書き方をしたので、作中のメタファーを想像しながら観られた人には楽しんでもらえたようだ。しかしこれもまた一般受けする作品でなかったことは、自分でよくわかっている。別に悪いことだとは思わない。事実、僕は二十歳のうちに『幻想の方舟』という作品を書き上げたことに、大きな自負心を抱けたのだから。
そして次作『東の地で』は、より思索的演劇の志向を高めてみたいと思っている。また同時に、一般受けしうる物語として作品を提示したいとも思っている。あまり観客全般から遠ざかっていては、それこそ何も伝わらずに終わってしまう。そんな風にして消えていくつもりはない。好き勝手、書きたいことをただ書いてきたものだけれど、その度社会と自分自身とのずれを少しずつ認識してきた。そろそろ手を広げたい。難解な独りよがりに陥らず、理性にも感性にも同時に訴えかけたい。
今回、作品の紹介として以下のような文章を書いた。
人間は結局、その罪から自由になることはなく、世界は分裂と対立に終わる。それが祝福に満ちた天地創造にはじまる原初物語の結論である。 ならば何故われわれはこうも苦しみ足掻きながらも、生まれてくることをやめないのだろう。何故われわれは心の奥底では愛を欲しながらも、真実から目を背けてしまうのだろう。ほんとうに守らなければならないものは、何だったんだろう。
ミームの心臓、初の二人芝居。性差を超えた恋、死者へと向かう愛、そして、死の欲動との対面。
物語としての神話性よりも、枠組みとして借りてきた神話を更新するような思いで書くことに重点を置いた。その中で、人間が何千年ものあいだ逃れることが出来ずにいる「関係性」について思索したつもりである。
アンドレ・ジッドは「人間の終局目的は、神の問題を少しずつ人間の問題に置き換えるにある」と言った。これが次作『東の地で』に直接的に関わってくるテーマとなっている。うまく伝われば望ましいが、伝わらないことの葛藤もまた必要なことであると考えている。
レビューサイト・ワンダーランド企画「振り返る私の2011」寄稿文
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1.東京芸術劇場「チェーホフ?!」(タニノクロウ作・演出)
2.葛河思潮社「浮標」(三好十郎作、長塚圭史演出)
3.イキウメ「散歩する侵略者」
これら三作品、どれも思わず涙が零れ落ちた。僕は演劇にしても映画にしても、肌で作品を感じることで揺さぶられることが多い。一般的な見方のように物語に沿い人物に共感して泣くことは稀である。
では何に涙したか。あえて言うなれば、「チェーホフ?!」は視覚的な美意識に触れ、「浮標」は生の希求の信念を感じ、「散歩する侵略者」は価値観が共鳴した思いによる。そこに共通点は見当たらない。ただ一点、僕の感性を響かせたという以外には。
作品の鑑賞は論理では片付かない。時代から検証した傾向などに興味はない。一時の流行に終わらず、いつの時代にも観客を深く捉えて離さない強度を持つ作品をこそ求めたい。そして僕もまたそのような作品を書きたいと思うのだ。
(年間観劇数 85本 選出した三作品の並びは上演時期順)
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私たちの目は近視になった。先の見えない未来であるのに、そこには確実に現在の延長線が続いていくことを信じている。何か大きな変化が起こることなど想像しないし、また望んでもいない。それがゆえ、すっかり遠くを見る目を失ってしまった。近視でもあれば十分というわけだ。
対して共産主義を信じることのできた時代の若者は、遠視だったのではないかと思われる。今現在の状況を把握する前に遠き未来へと目を向けた。社会変革を志すに当たり、時代遅れな左翼思想に一身を預けたのが、時代を読み切れていなかった証左である。彼らは足下の石に気付けずに、躓いて倒れた。
どうしてこうも極端なのか。僕は両者共に対して懐疑心を抱かずにはいられない。現実を諦観するではなく、しかと見据えつつ、それでもなお理想を追い求めることはできないのだろうか。
私たち、つまり現代の若者は、道端の電柱に頭をゴツンとぶつける前に、目の矯正をした方が良い。躓いた過去は救えないが、今を変えていくことならできる。電柱に気付く為の対策は出来る。近視には然るべき凸レンズの入った眼鏡が必要だ。その眼鏡とは、理想を胸に抱けども、目の前を見ようとしなかった四十年前の全共闘世代を知ることにあると考える。
そうして僕は、夢見ない現代の若者と、全共闘の若者の邂逅から始まる劇を作った。両者の出会いには確実に意義が見出せるはずだ。演劇という生身同士のぶつかり合いだからこそ、思想の対立軸がより鮮明に浮き彫りになってくる。今夏、その作品を上演する。
私たちは生きている限り、闘い続けなくてはならないのだ。そのためには現実と理想への試行錯誤を止めてはならない。
いつの日かその必死の生を振り返り、己に恥じぬ生き方であったろうか自問自答する。その時に、ある理想地点へと到達することができていれば、それでいい。理想に行き着くため、今はただ懸命に今を生き抜くことだ。
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