鐘下辰男氏 ×『学生版日本の問題』参加劇団主宰


話し手:鐘下辰男(劇作家/演出家/演劇企画集団「THE・ガジラ」主宰/桜美林大学客員准教授)
聞き手:酒井一途(ミームの心臓主宰)、岩渕幸弘(思出横丁主宰)、菊地史恩(四次元ボックス主宰)

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企画公演『日本の問題』について

酒井 では早速お話を聞かせていただこうと思うのですが、まず「日本の問題」と掲げて演劇をやることの是非について、どう思われますか?

鐘下 僕の印象だと、ここしばらく大学演劇が元気ないなというのがあって、あくまで僕が演劇を始めた80年代なんかに比べるとだけどね。あの頃の元気というか、派手さに比べると。あの頃が良いか悪いかは別にして。でもここ二、三年くらいかな、また当時とは違った形で学生劇団の活動が活発になって来ているなという雰囲気は感じていて、面白いことが起きそうだなと、非常に期待しています。

酒井 演劇界全体の展望として若手が出てきていると。

鐘下 そうそう。諸君らは90年代前半生まれでしょう?

酒井 はい、そうですね。

鐘下 90年代って言うと、日本の演劇界では俗に言う「静かな演劇」が注目されはじめて、それが年を経るごとに演劇表現として認知されていった時代でしょ。君たちが演劇を始めようなんて思ったときには結構それがポピュラーなものとして現前としてた状況だったと思うんだけど、それとは一線を画すというか、先行世代にはない自分たちの「物語」を語ろうという気運というか、そういう面が感じられる気がする。

酒井 なるほど。

鐘下 あと「日本の問題」っていうテーマの掲げ方ですか。それはここ十年くらいかな、先行世代が今の若者の作る芝居を評する時に、自分の半径三メートル以内の物語しか書かないじゃないかっていうような批判がよくあったんだけれども。

酒井 岸田賞の選評とかもそうでしたね。

鐘下 そこで「日本の問題」とドーンと来るわけだから、そうした批判を意識しているかどうかはわからないけど、少なくとも外に向かおうという意志を感じるから、面白いというか、なんかワクワクしちゃうね。こっちも。

演劇で伝えたいもの

酒井 例えば静かな演劇を挙げてみると、平田オリザさんは自分の著書で、「伝えたいことはもう何もない」みたいなことを仰ってますが、それと日本の問題って、かなりかけ離れたところにあると思うんですね。そこで、静かな演劇が台頭してきたことについてはどう思われますか?

鐘下 日本の近代演劇は始まった当初から、これも良い悪いは別として確固としたものがあったんだよね。日本の問題として伝えるべきものが。たとえばそれは大きく言えば日本の近代化だったりした。だから西洋近代思想を啓蒙したり、時には社会主義リアリズムに走ったり。これは要するに当時の社会情況がそういう問題提議を可能にしていたと思うんだけど、つまり多数の人間が一つのイデオロギーであったり考え方なんかを、たとえ今から見ればそれが幻想だろうとなんだろうと、みんなが信じることができた。
で、そうした問題提議は60~70年ぐらいまでは可能だったんだろうけど、80年代とかになってくると、それがむずかしくなって来る。価値観の多様化も進んで、なにを伝えるべきなのか見えにくくなってしまって迷走がはじまる。そんな時に、「何も伝える必要はない」とズバリ言ってくれたわけだから、当時の若い人たちにとっては受けが良かったのかな。

酒井 そろそろ、それにも飽きが来ている……

鐘下 「伝えたいことはもう何もない」という、これも一つの主張だとは思うけど、こうした主張にある新鮮さがあったのは確かだと思う。「演劇は何かを伝えなくてはいけない」「でもなにを?」って模索してたら「そんなのいいんだよ、そういう時代じゃないよ」って言われて、なんかすごく自由になれたっていうかね。そこから「そうだよな、演劇がそもそも人のため世のためにならなくちゃならないって法はねぇよな」っていう風潮なんかも出て来てさ。でもそれも二十年ぐらい続いて来ると、おいおい本当それでいいのかと。それは現代の社会に対する不安が大きいと思うけど、やっぱ何かないことにはこの不安にみんな耐えられなくなってるっていうかさ。若い人だけじゃなくて。みんながなにかを探し出そうとしている、そういう感じはする。昨今の哲学ブームみたいなの見てるとね。

プロパガンダとしての演劇

酒井 ネットが流行りだして、テレビもそうですけど、プロパガンダの手段としての演劇っていう役割は薄れてきていると言われますが……

鐘下 なんで演劇がプロパガンダに利用されたかっていうと、人が集まったわけでしょ、演劇すると、昔は。これは今と違って娯楽の数が決定的に少なかったってのが大きいと思うんだけどね。かつての演劇の娯楽性ってのは相当高い地位にあったと思う。
ただ世の中が豊かになるにつれテレビを筆頭にいろんな娯楽が生まれ出して、それが80年代くらいになると爆発的に増えていくわけでしょ。で90年代になるとネットなんかも出て来る。今やテレビは娯楽の王様じゃなくなってるわけだし。若者がどんどんテレビを見なくなってきているなんてことも言われてる。ネットを使えば自分専用の娯楽なんかも簡単にできるわけだから。相対的に演劇の娯楽性としての地位は相当低下しているということはある。つまり演劇がプロパガンダの有効な手段ではなくなってきているよね。今は。

酒井 それでも僕らは日本の問題を掲げて演劇をしようとしているし、鐘下さんも何かしら日本の問題を突いた演劇を上演してらっしゃると思うんですが、プロパガンダの役割としては薄れてきているのに、それでもまだ日本の問題を掲げて演劇をすることの意味というのは?

鐘下 演劇っていうのは、とことんアナログな世界だからね。演劇を観るには客は劇場に行かなければならない、演じ手だってそうだし。経済効率はすこぶる悪い。ただ、同空間に演じ手と観客が存在するっていうある特異な空間だからこそ成立するものがあるのも確かで、それはテレビにも映画にも、ましてやネットにもない演劇独自の力があるはずだと思ってるから、みんな演劇を続けているわけだよね。じゃそれはどんな力ですかって問われると簡単には答えられないけど、演劇にしかできないものがあるんだってことをどこかで信じているんだろうね。

岩渕 何か物事が進んで便利になって発展すればするほど、よりアナログだったり不便なもののマイナス面があるからこそネットが発展したというか、マイナス面が逆に功を奏すっていうものが物凄くあるような気がしていて。新しいものにもそろそろ限界が来てて、発展してたことを知らない人たちがもう一度原点に帰るんじゃないかと思うんですね。だから古いものに目が行ったりして、昔は良かったと。上の年代よりも、僕たちぐらいの年代の方が割と昔に興味を持っていたりするのが面白いなと。

酒井 今の時代、学生運動に興味を持ってる人が多いですものね、学生の中で。僕自身も69年という時代に好奇心を惹かれたりするところはありますし。

鐘下 でもそれは僕らの時代にもあったよ。僕らが20代っていうのはいわゆる80年代で、当然当時、学生運動は過去のものになっていたけれど、ああいうものに対する憧れや嫉妬みたいなものを持つ人は多かったね。

演劇の有効性

鐘下 ネットのように人間が身体を介さずにコミュニケーションするようになって来て、さすがにそれはまずいんじゃないかと今じゃ誰もが思うようになってきていてさ、この段になって演劇の必要性みたいなものが言われたりはしてきている。例えば演劇トレーナーみたいなのを育てて、学校教育として子どもたちのコミュニケーション能力の強化に役立てようとか。あとは桜美林でもやっているアウトリーチとかさ、演劇が娯楽としてのそれよりも、ある種の社会活動としての一貫として注目されはじめて来ているって流れはあると思うのね。そういう面では、一昔前に比べると演劇も随分市民権を得て来てるなって気はするんだけど。

酒井 菊地くんは今の話を踏まえて、どんな風に考えましたか?

菊地 スピリチュアルな話になってきてしまうんですが、直に話しているのと、電話に話すのとの間にあるエネルギーの差っていうのを感じられない若者が多い。学生運動ってのも、興味ある人はあるんですけど、知識として知らない人の方が多いじゃないですか。そこまで本も読まなくなってきているし。ネットで「ああ、こういうのがあったんだ」というぐらいで。だから僕は過去の物事に対する興味と言うよりは、ただ単に生身の人間が何かをやるという演劇のエネルギーが今の時代には必要になってくるんじゃないかなって。

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演劇がまた来る!?

菊地 岩渕さんと話したんですが、「演劇がまた来るんじゃないか」と。

鐘下 学生運動といっても、いわゆる60年代後半の全共闘運動ってのはというのは、従来の政治性を背負いながらやっていた人もいたにはいたけど、参加していた大多数の人間はノンセクトでしょ。政治運動というよりはみんなで教室を占拠して籠もるとか、大衆団交で教授たちを吊し上げるとか、言うなればある一種のお祭りだったって側面もあったらしいからね。一昔前で言うところの祝祭性? そうした空気に魅力を感じてた人が実は大多数だったってのは聞いたことがある。それが良いか悪いかはともかく、ある意味それは非常に演劇的な状況だったりするよね。個人ではなく、集団で動いて熱くなって騒いでさ。演劇が来るというのは、そういうことが起こるのではないかと?

岩渕 いや、僕はそれとは若干違うと思っています。(学生運動は)そこから先への展望があった上で刺激していこう、って言うスタンスだったわけです。どちらかと言うと今は先の展望がなくて。でも展望がないなりに、我慢がしきれずに退屈している人間が上を見て「これはもう駄目だ」と。自由教育によって落ちぶれた奴は落ちぶれているけど、勝ち残って自由にやって良いんだという奴が、功を奏して自由にやり始めたわけです。若い人の中で結構過激な劇団って多いんですが、それは未来のためではなくて、どうしようもないからだと思うんです。不安なのかどうかはわからないですけど、俺たちがやるしかないという。だから、先はないと思うんですね。

鐘下 今熱くなりたい、みたいな?

岩渕 そうですね。それこそ無我夢中。目の前の土を掘ってるだけというか。その先に何もなくても良いけど、何かあるんじゃないかと思うことが大事だ、みたいな。それがちょっと昔と違うことだと思います。

思出横丁のテーマ「人生指針の喪失」

酒井 「人生指針の喪失」というのを岩渕さんは掲げていますが、それについて何か……

岩渕 僕は大学生だし、大学にいる時間が長いので、同じ年代のヤツらと絡むことも多いんですが、見て思うのは桜美林ってすごく充実してるなと思って。でもその充実が逆に甘やかされてしまうと、自主性が損なわれてしまう。大学は方針を決めてくれる。例えば演劇をやりたい。そうするとある土壌が確保されてしまって、こういう秩序を守りながら演劇をやって良いですよと。例えばOPAPもそう。ある者がいて、そこに参加してくる者がいて。そういうものを使っていると、だんだんそれがそういうものだという風に、当たり前になってくる。

酒井 与えられた環境が自分の中にある、と。

岩渕 井の中の蛙で視野が狭くなっていってしまう。それに気付かないってのが一番問題なんですね。わかってやっているのならいいけれど。わかってない人に少しでも機会をね。だから「喪失」って銘打っていますが、喪失してるかどうかは個人の問題で。それが当たり前じゃないんだってことを言いたいですよね。僕、ちょっと前に「しろ」やりましたけど、あれも当たり前だと思って城に行ける人間が、行けないっていうところからお話が始まっているわけです。

各大学の演劇活動の状況

鐘下 少し話がずれちゃうかも知れないけど、桜美林だったら演劇専修があってさ、劇場があって稽古場もあって現場の人間が講師とか教授とかしていて、こういう方法論があるよなんて教えてさ。まあそれがさっき岩渕が言ったような、学生の中にある依存体質を形成してしまう危険性があるわけだけど。でも慶應とかだとそういう演劇学科ってないよね。

酒井 ないですね。

鐘下 それでも演劇をしている。昔から劇研だってあってさ。これはどういう心的動機なんだろうね。誰からも演劇をやりなさいなんて言われてないのに。

酒井 大学になってから演劇をやりたい人というのは結構あるようで。というのも、今まで運動部で必死に汗を流してやってきたと。「ただ大学に入ってまた運動やるのもなあ。体育会に入るのはさすがに大学に入ってからは辛いし」って言う時に、じゃあ演劇でもやってみようかと。そういうふうに文化方面に興味が向かうんですね、大学生は。だからそれなりに演劇活動もあって。うちの大学には演劇サークルは二つあるんですが、一つはかなり大きくて入部している人が百人以上いる。その中で劇団が幾つも発生してという形になっています。
でもやはりどうしても大学内の内輪になってしまうんですね。それは桜美林にしても日藝にしてもそうだと思うんですけれど。そこから外に出て行けない。だから桜美林に演劇専修があるように、うちの大学には演劇サークルというものがあって、その中で収まってしまって、先輩後輩の関係で与えられた環境が作られるんです。じゃあそこから外に出ようと行った時に、何も方法を知らないし、行くべきところを自分で見つけられないから。そういう意味では大きさに差はあれど、あまり状況は変わらないかもしれません。

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演劇と大学システムの関わり

岩渕 演劇の力がなくなっていったって言うじゃないですか、その演劇の流れを作った年代の人たちが現場の人間なのに大学教育に回っていった。有名どころはみんな大学の教授になって。そういうのは、現場の人間から言うと日本の演劇の中で転換期なのでしょうか?

鐘下 90年代になると演劇のあり方が大きく変わっていったのは事実だと思う。象徴的だったのが新国立劇場の開場だね。色々問題はあるにせよ、一応体裁だけは現代演劇の国立劇場ができた。
このころからだと思うね。演劇が行政なんかがやる文化事業の一つみたいな地位を獲得しはじめて、さっき言った学校教育への参入とかね、そうした流れの中から大学が演劇学科を作っていったという流れはあるのかも知れない。
ただ先ほども言ったけど、演劇をやるんだって心的モチベーションが、時代が下るにつれ、かつての近代演劇勃興の頃のようなひとつの価値を信じるということへの不可能性が進行して、それぞれがそれぞれの演劇活動に個別化していった状況が、そうした大きな流れに呑み込まれていったというのはあるかもしれない。

岩渕 それは現場の人間が折れてしまったと?

鐘下 折れてしまったというか。

岩渕 演劇を学校でやるということを、例えばテントでずっと回っていた唐十郎のような人が思うようになるとは、僕には思えなかったんですね。学校というシステムの中に入って、授業で先生と生徒という関係性の元で演劇をやってしまうと言うことですから。野田秀樹もそれに入ったし。

鐘下 たとえばかつてはそうしたシステムに対する批判の文脈をみんなが持っていたというか、その文脈をみんなが信じられてたって状況があった。乱暴に言うとたとえばそれは日本の現代演劇がその体質の根底に抱え持っていた反国家だったり反権威だったり。それが無意識にせよ演劇する全員が共有できていた。ただそれが信じられなくなってきた。反権威って言ったって、「権力ってどこにあるの?国家ってどこにあるの?」って感じでね。そんなことより自分の趣味の方が大事だって言ってオタクに走る、それが僕らが20代を生きた80年代だった。当時はそれこそ先行世代に今の演劇は私演劇だなんて言われ方をされたりね。そうして演劇人が個別化していくのに反比例するかのように、文化国家なんていう新しい文脈が一方では生まれて来る。そういう流れの中で、演劇人が岩淵の言う学校という大きなシステムに吸収されていったということはあると思う。

 80年代に演劇を始めた若い世代、つまり僕みたいな連中だけど、20代で芝居を始めて30代になると助成金制度も大々的に行われるようになった。当時は先行世代から「国から金もらって、お前ら芝居やるのか」と揶揄されながらも、腹が減っては戦はできぬってな具合にある種みんなが利口なリアリストになっていく。良い悪いは別として。そういう演劇人としての体質変化はあるかも知れない。

岩渕 日藝も現場の人間だよね。

菊地 串田(和美)さんとか川村毅さん、

鐘下 ああ、川村さんも行ってるの?

菊地 舞台総合実習っていう授業の演出家として招かれていて。あとは加藤直さんとか、中堅どころでは桐山さんって演出家とか、文学座の鵜澤さんって方とかですけど。普段彼らはあまり教育って言う観点では授業を見ていていないのかなとは思います。

酒井 彼らはシステムに取り込まれているわけではない?

菊地 いや、取り込まれているって言えば、取り込まれてるのかな。というのは舞台総合実習のトップは招かれた人じゃなくて教授陣なんですよ。日藝の場合は学生から助手になって、助手から教授ってなってと、日藝の枠の中でしか育ってきてないという人が偉い地位についていて。その人が舞台総合実習で「こここうした方が」と言ったのが通ってしまう。
それで川村さんが演出した舞台総合実習を見たときに「この程度なのか」と思ってしまって。絶対そんなはずはないと思うんですよ。だからそのシステムの中で彼らは取り込まれているというよりかは、怠惰になっているのかなという気も。

鐘下 いろんなタイプの人がいるとは思う。取り込まれますよ、それは生活のためですよと開き直る人もいれば、そうじゃないと頑張る人もいる。それはその人その人で違う。ただシステムに取り込まれるか否か、というときに、かつては明確にそれは否だ、という了解が演劇人の中にはあったというか、それが一般的だったわけだよね。問題はそうした考えが果たして今でも有効なのかってのはある。

酒井 体制がハッキリしなくなってきたのも原因ですか?

鐘下 体制?

酒井 権力というものがどこにあるのかという。

鐘下 そうそう。例えば僕は監視社会というものに今興味があるんだけど。かつては監視をするのは権力の側だった。あくまで我々は監視される側だった。それが今や権力云々というよりも、我々が監視したくなってる。つまり危険な奴、おかしな奴は早急に監視によって発見したいという欲求を我々自身が持っている。権力が我々を操作するという従来の構図が見えなくなっている。「俺は今権力に自由を奪われている」というリアリティがなくなって来ているから反権力の芝居を作るという発想も生まれてこない。

酒井 我々が我々を監視してるってのは面白い視点ですね。

鐘下 みんなが望んでるわけだよね。危ない奴は早急に排除しようって。

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OPAPについて

酒井 演劇と大学が結びついてきたところで、OPAPについてお聞きしたいのですが。学生と一緒に作っていく中で、鐘下さんはかなりやりたいことやってるなあと思うんですね。僕は『四谷怪談』と『死の棘』を見させていただきまして、俳優達は水浸しになっているし、ガジラにあるような暴力性も受け継がれているし、これを学生達にやらせるのは非常に面白いなと。というのも学生の内に俳優としての負荷を経験しておくのはいいことだなと思っていて。やらせてくれる大学もすごいし、やってしまう鐘下さんもすごいなと。学生達と作っている中でどうでしょうか?

鐘下 俺も桜美林に来て5年くらい? やっぱり最初はある種の戸惑いがあったんだけれども、段々面白くなってきちゃって。なにが面白いかってね、僕が今40代後半、今の学生は90年代前半に生まれた子たち。単純に言うとこの距離感なんだよね。例えばこれが10年前。自分が30代だったときの20代との距離感とは面白いくらいに違う。感性にしても考え方にしても。「え?そういう風に考えるの?」ってね。僕らの常識と、今の20代の常識の違いって言うかね。これを今の若者はって具合にある嘆きにいく人たちもいるんだろうけど、僕はこの違いが結構面白かったよね。通常の演劇現場だとそういうある種の世代間ギャップを感じない中で、最初からある共通言語を持ちながらやるんだけれども。学生相手だとそうはいかない。

酒井 なるほど。

鐘下 互いの感性が稽古の中でぶつかっていく。その過程が面白かったんだな、僕は。だから普通の俳優さんとやっても生まれない、

酒井 違う感覚同士のぶつかり合いが。

鐘下 そうそう。生まれてくるんだ。それは僕にとっていい刺激なんだよね。物凄く素晴らしい俳優とやるときの刺激ももちろんあるけれども、それと同じくらいの刺激を受ける。

学生視点からのOPAP

酒井 岩渕さんはOPAPの演出助手をされていて、現場の雰囲気を客観的に見られているのではないかなと思うんですが。

岩渕 いや、僕はこの流れでこう言うのはどうなんだと思いますけども。

酒井 はい。

岩渕 正直OPAPは廃止するべきだと思うんです。

一同 (笑)

岩渕 野田(秀樹)さんもこの前企画で『半神』を多摩美の学生とやっていたり、唐(十郎)さんも随分前にF/Tで『少女仮面』を近畿大学で出していて、僕両方とも観に行ったんです。僕も20云年芝居をやったら、そうなるのかなっていう気もしないでもないんですけど。

鐘下 うん。

岩渕 ある種の長老目線、つまり学生とやってみることである種の刺激を受けるっていうところに、トップの人たちが行ってるんじゃないかっていう気がしないでもないんですよ。それはさっきのシステムの話とはまた別で、システムに入っていなくても、ある私物化的な芝居作りに行ってるというか。

酒井 私物化的?

岩渕 刺激を受けて、その刺激がどこに行くのかが問題なんです。ただ学生と芝居をやってみたい、それで自分になんらかの変化が起こるんじゃないか、っていうところで止まってしまうと、そういう中で芝居をしている学生たちはどう思うのかという。

鐘下 まあそれは学生がどういう風に思うかで。でも演劇をやるときって、多かれ少なかれやっぱり自分にとっての刺激だよね。つまり刺激を受けたいわけでしょ。刺激を受けることで、新しい変化を自分の中で期待するっていうことからはじまると思うし。私物化って言ったけれども、私物化だから良い面っていうのがあるんじゃないのかな。

岩渕 うーん。

鐘下 確かにぼくがそこからどこに向かうのかは重要だけど。そこを棚上げして言わせてもらうと、桜美林のOPAPっていうのはオーデション制でしょ。つまり学生が自主的にこのOPAPをやりたいという意思表明がある。これが通常のね、いわゆる新劇の養成所の卒業公演とかってなってくると、なにはともあれ全員出さなくちゃってことになる。演じるほうも出なくちゃいけないってことになる。1本の芝居に出る人数は当然限られてるわけだから、全員出すためにはダブルキャスト、トリプルキャストなんてことになる。こうなるともう私物化のしようもなくなってくる。とりあえず形にしなくちゃって作業に忙殺される。本当だったら班毎によって違う芝居の面白さが出てくれば面白いんだけれども、そういうことをやりたいという欲求も生まれてこない。要するに忙殺するわりにはちっとも面白くない。だって選んでいる俳優が自分が選んでいる俳優じゃないわけだから。なんでおれこいつと芝居してんの?って疑問符だけが増えてくる。これはお互い不幸だと思うんだな。ところがオーデション制だと一応こっちだって選んだ責任もあるしね。

酒井 僕はOPAPを観客として観たときには、年代が上の方たちと一緒に演劇を作ったり演出を受けていく中で、学生側としても非常に大きな刺激になるんじゃないかなと思ったんです。それは岩渕さんの考えからすると受動的で、それこそ与えられた環境での芝居作りというものに含まれてしまうと思うんですが。

岩渕 桜美林ってこれだけ学生がいて、役者があまり眼に見えて外に出てこない。ただ演出は、新国立劇場で中屋敷さんもやりましたし、バナナ学園も今度F/Tでやりますね。「それはなんでかな」と思ったんですけど。OPAPというシステムの中では、スタッフと役者があるプロの現場の演出家のもとで選抜、もしくは参加してくるんですね。だから与えられたところで演出家から指示が出るわけです。指示がくれば役者も動く、スタッフも動く。プロの演出家だし、金を取る作品なわけだから絶対的に最後は作品になっていく。
だけど、OPAPの中に唯一ない部署が演出なんですよ。これはどうにも、やるには学生団体でゼロから自分たちがやるしかない。もちろん場所なり資金面はある程度確保してくれるかもしれない。だけれども作品をゼロから作る脚本や演出の面では、完全に自分たちの力でどうにかすることになる。外に行ってもそれは変わらないから出て行きやすい。
役者になると、僕、学生団体でやってるからすごくよくわかるんですけど。OPAPに出過ぎてる役者と、全然やってない役者は何が違うかって、テクニックでなんなりっていうもんじゃなくて、わかってない奴が逆に良かったりする。わかってると、変に個人としてのプライドが高過ぎて、役者としてのプライドが邪魔して芝居作りに望んでくれない。発信してるつもりなのかもしれないけれど輝かない。そういうのはOPAPっていうシステムが作っているのかなと。しかもそれが定例化している。「あ、またOPAPがある、じゃあとりあえず受けよう」それで出演した、まあ終わった。「じゃあ次のOPAP」それが気付かない内に悪循環を生んでるんじゃないかっていう。

鐘下 ただね、それがあるからこそ、例えば岩渕はそうしたことも見えてくるし、ある種自分と他者との差別化が図れたわけでしょ。そういう意味での存在感はあるんじゃないかっていう気はするけどね。OPAPに何度も出ていて、しかも依存体質でしか芝居をして来たような俳優は、卒業したらどうなるかっていうのは、本人が一番わかることだし。学生の依存体質の問題はOPAPがすべての原因とも言えないと思うし。

岩渕 日藝はそういう学校としてのシステムは?

菊地 「舞台総合実習」で授業として各コースが集まってやるんですけど、魅力を全然感じないですね。演技コースの同期の奴らが「何の役やりたい?」「じゃあ私この役やる」みたいな、なあなあのやり取りをしていることに失望もしましたし。それもやっぱり学校の中では、致し方ないのかなっていう気にもなっちゃうんですよね。授業だからお金を取らずに一般の方にも見せるんですが、これ「お金をとりますよ」「ちゃんと外の公演ですよ」ってすれば、多分変わると思うんです。そういう学校に対して不満はあります。

システムの中の演劇

鐘下 確かに演劇界には演劇界のシステムがまたあってさ、卒業しても自身の劇団や活動を続けていくって学生以外は、桜美林を出ると、たとえばスタッフ志望の学生はどっかの照明会社や音響会社に入ったり、俳優志望はどっかの大劇団の養成所や事務所とかに入ったりする。じゃそういう劇団や事務所やスタッフ会社ってのはどんな芝居を作ってるのかと言えば、結局は従来の演劇システムの中で容認されている演劇をつくっている。これが良いとは僕だって全く思ってはいないけど、大学としてはこうした今あるシステムの中に取り込まれていった方が都合がいいわけでしょ。。就職先の問題とか考えると、卒業して劇団をやりますって言うよりは「どこどこの劇団員になりました」「どこどこの照明会社に入ります」って学生を増やした方が、大学としては世間の受けはいいわけだよね。だからそういうものはそういうものとして、あってもいいだろうし。でもそういう今ある演劇のシステムに入らない演劇人が当然出て来てもいいわけで。そういう演劇人が出てくる可能性があるのはいま桜美林の中では演出コースしかないってことだよね。それはOPAPでシステム的な教育がなされてないからだっていう意見なわけでしょ、岩渕が言うのは。他は俳優にしてもスタッフにしてもみんな依存主義になっていく。

酒井 規制があるからこそ、既成にとらわれない人たちが出てくる……

鐘下 自由な発想ってものは教えられるものじゃないからさ。

岩渕 演出には与えられた授業がないから、わからないものを勉強するしかないんですよ。本を読むとか、芝居を観るとかね。でも役者は授業で与えられてるから、勉強した気になるんですよね、全然勉強してないのに。「わかってるよ」と思ってしまう、全然わかってないのに。

酒井 そこがプライドになっているわけですか。

岩渕 うん、だから勉強の順番が違うっていうか、「やる」「わからない」「だから勉強する」ならいいんですけど、まず「勉強させろ」っていうところから入って、それで何かを与えられるということになってる。

鐘下 まあそれもさ、個人個人で、別にOPAPをやったってもそうならない奴もいるよ。確かに依存体質に陥る人間は多いかもしれないけど。で、そういう子たちは大体卒業すると大手の劇団の養成所なんかに行ったりっていう道を選ぶよね。つまり自分たちで集団を作るとか自分の表現の団体作るのとか、そういう思考回路は働かないよね。

酒井 岩渕さんの考えを進めていくと、OPAPが必要ないというより演劇の学校自体が必要ない気がするんですけど。

岩渕 まあそうなってくるんですけどね。でも上の方々からするとそれは一つの挑戦であるわけだから、システムなり土壌があるっていうのは、先に繋がることなのかなっていう気はします。でも僕らの年代がそういうものを受けて二十年経った時に、どうなってるか……

鐘下 現場の人間が大学で演劇教育をやってるわりには、多分きっと「大学で演劇を教えてどういう演劇人を作りたいのだ」というはっきりしたビジョンがまだ無いんだよね。今はその人個人の感覚や感性でやってるってのが現状でしょう。大学でどういう演劇人を育てるのか?、もっと言うと大学で演劇人を育てる必要あるのか?って議論からはじめないと、なんか今は中途半端になってるってことは確かじゃないかな。少なくともどこどこのスタッフ会社に入りました、劇団の養成所に入りましたってな人間の数を増やすことが、演劇教育の本質じゃないんだろうし。

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学生に期待する視点

酒井 最後の質問をさせてください。学生の視点にどういうものを期待しますか?

鐘下 例えば僕らは「戦後日本教育」で、君らはマスコミで言うところの「ゆとり教育」で、受けてきた教育理念も違うし生きてきた時代も違うよね。僕が生まれたのは昭和三十九年だから高度成長の時代ですよ。「日本はいいよ!」って言われながら大きくなってきた。でも君らの場合は生まれた時にはバブル崩壊してて、経済的にも落ち込んで、「日本はダメだ!」ってのを聞きながら大きくなってきたから、全く違う感性を持ってると思うわけ。僕らには想像出来ないようなね。
だから若い人たちがどういう風に今の社会なり日本……まあ世界でも人間でもいいんだけど、どういう風に人間を見て芝居を作っていくんだろうという興味があります。例えばこの「日本の問題」、それこそ自分の三メートル以内の世界じゃなくて、なんからの形で「日本」というものを語っていこうとしてるわけじゃない? そこにどんな日本観が出てくるのか、そこに凄く興味がある。そこで語られるのは多分僕らには無い感覚、感性がベースになってるだろうし、そこの期待感ですね。

酒井 ありがとうございます。

岩渕 大人版だと僕たちの倍ぐらいの年代の人が多いわけじゃないですか。だから合わせて見たときに、同じテーマを掲げている人が被っていたりしても、たぶん全然違う結末だったり結論を持ってくるはずだっていう。

鐘下 そうだろうね。それこそ「3.11」を取り上げたって、全然違うものが出てくるんじゃないのかね。

酒井 ひとつの物事の見方でも、全然違った視点を持ちますものね。

鐘下 そうそう。だから変な話ね、諸君らはよくさ、日常的に先行世代から「今の若いやつは、今の若いやつは、今の若いやつは」なんて言われたりするわけじゃん?

酒井 はい。

鐘下 「俺たちの頃に比べたら、今の若いやつは」みたいなさ。「俺たちに比べたら弱くなった」とかさ。それって結局、日本の社会状況の変化とか、教育のシステムの変化とか、いい悪いは別にしてそこの体質変化に気がつかないで印象判断してる先行世代がすごく多いと思うわけ。でもそうじゃないんだっていうね。君たちが「日本」を語ることによって、日本そのものの体質変化っていうかさ、そういうのが出て来てほしい気もするね。

酒井 その期待に応えるって言うのもおかしいですけど、僕らの見た視点で作った作品を打ち出していけたらなと。

鐘下 どうにかしてね、観たいと思ってます。

酒井 今回は学生版の企画ということで、学生と演劇との関わりみたいな話をお聞き出来て、良かったなと思います。ありがとうございました。

鐘下 いえいえ。

菊地・岩渕 ありがとうございました。


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